国際奉仕 中国高校生作文 2008

中国高校生作文

日本、中国、両国の青少年研究所の主催による北京市を除く中国全土の高校生による「日本語作文コンクール」が実施されています。
当クラブも国際奉仕委員会の協力を得て、その催し物に参加する事により、日中青少年の交流を深めるべく、東京上野ロータリークラブ賞を設け、協賛させて頂いております。1999年5月以降、中国に渡り候補者の学生達に面接して東京上野ロータリークラブ賞を決定し、賞状と記念品を贈呈しております。

2008年度受賞作品

「私の夢」

学校名:瀋陽市朝鮮族第一中学
学年:高1
氏名:呉 香君

 人はみんな夢を持っているでしょう。例えば、医者、教師、エンジニアなどいろいろあるでしょう。私にも夢があります。それは家族みんなでいっしょに生活することです。ほかの人にとってはすごく簡単なことかも知れませんが、私にとってはとても難しいことです。なぜなら、家にはいつも父と姉と私しかいないからです。家族みんなでいっしょに生活するのは私の願いでもあり、夢でもあります。
  母が外国へ行ったのはもう三年も前のことです。その時、父が経営していた会社が急に不景気になってしまったため、私の家は生活に苦しみました。姉と私の学費を支払うのもやっとでした。それで、母はしかたなく外国へお金を稼ぎに行くことになったのです。それからずっと私たちは母と離れて生活をしてきました。
  母が外国へ行ってから、私の家は変わってしまいました。とても寂しくなってしまいました。そして父の仕事は前よりもっと忙しくなってしまいました。母がそばにいた時は、私たちの学校でのことを聞いてくれたり、心配してくれたりしましたが、今は全然話を聞いてもらえません。生活はもちろん、勉強のことも全然聞いてもらえません。それだけでなく、風邪を引いた時も私と姉の二人だけで互いに看病し合います。父の仕事が忙しいのは私にも理解できます。仕方のないことです。でも、疲れ果てた父があまりにも冷たく感じられます。そのためか母のことがもっと懐しくなります。
  学校からの帰り道、私はある家族を見ました。その家族はショッピングをした後、バス停でバスを待っているようでした。彼らの手にはたくさんの荷物がありました。いろいろ買ったようでした。おしゃべりしながら、笑顔でバスを待っていました。とても温かい家族だなと思いました。私は自分がもっと寂しく感じられました。とてもうらやましかったです。家族でショッピングすることなど私には無理だからです。みんなが当り前にしていることを私はできないのです。
  最近は春節を迎える時も以前ほどにぎやかではありません。以前だったら、元旦や中秋節など、大きな祭の時は必ず家族みんなで祖父の家で過ごしていました。その時は本当に大家族で楽しかったです。祖父、祖母、おじさん、おばさん、両親、子供たちが一つの大きなテーブルで食事をしていました。大人たちはお酒を飲んだり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしていました。子供たちは食事の後でトランプをしたり、花火をしたりしていました。とてもにぎやかで楽しかったです。でも、今は大人たちはほとんど外国へ働きに行っているので、にぎやかなどころか、遊ぼうとしても人が少なくて遊べません。そして、祖母がおいしい料理を作ってくれても、みんな帰って来られないので、食べることができません。
  昔の生活と比べると、今のほうがずっと豊かになりました。昔は田舎に住んでいましたが、今は大都市に新しい家を買って住めるようになりました。また学費のことも全然心配しなくてよくなりました。でも、私は幸せではありません。昔の生活の方が今よりずっと幸せでした。私は今、母の作った料理を食べたいです。私は家族は貧しくても苦しくてもいつも一緒にいるのが本当の家族だと思います。ですから、一日でも早く一緒に過ごすことができたらと思っています。もちろん、今の様子では一緒に過ごすのはまだ無理です。あと5年、10年先になるかも知れません。しかし、私はいつまでも待っています。きっとその幸せな日々が来ると信じています。一緒に暮らせる家族こそ、本当の幸せな家族だと思います。どんなに貧しくても家族はばらばらになってはいけないのです。
  私は母が帰ってくる日まで一生懸命勉強し、いい大学に入ります。そして卒業した後、いい仕事を見つけ、たくさんのお給料をもらいたいです。
  お金持ちが必ずしも幸せなわけではないのは分かっています。しかし、私の夢を実現させるためには、私も努力しなくてはなりません。
  どんなことがあっても、希望があれば最後までできるのです。たとえ実現できる可能性が低くても、自分の夢のためなら、不可能は可能に変えられます。だから夢を持つことはとても大切です。夢があったら、どんなに苦しいことにも勝てます。夢を持てば強くなれるのです。自信を持って、勇気を出して、私たちの夢を実現するためにがんばりましょう。

「私の町の環境問題」

学校名:洛陽市外国語学校
学年:高2
氏名:王 博

 私の故郷は洛陽です。洛陽は中国では九朝古都と言われ、悠久な歴史をもつ文化古城です。私は小さい頃からここで生活して、ここの人々とここの景色が大好きです。
  洛陽にはたくさんの名所旧跡があるため、毎年多くの人が観光に訪れます。しかし、環境問題が観光客をびっくりさせています。私は観光客たちが洛陽の環境問題を言うたびに、洛陽の市民として、洛陽の環境をしっかり守っていないので恥ずかしく思います。そこで、洛陽の環境は一体どこが問題なのか、自分で探すことにしました。
  私がまず思い付いたのは、道にごみが多すぎるのではないかということです。じっくり見てみると、道の両側のごみが確かに多いと思いました。その中には、学生が食べたいろいろなお菓子の袋や吐き捨てられたチューインガムや使い捨て弁当箱などがありました。しかし、道行く人たちはどうして気が付かないのだろう。まさか人々の環境保護意識が薄いのだろうか。私はこの問題にしばらく悩みました。なぜなら、洛陽市民の環境保護意識が低いということを信じたくなかったからです。それから、私が何気なく見つけたのは、ごみ箱がある道にはごみが明らかに少ないということです。自分が食べ終わった食べ物の袋ずっと持っておけないし、道にはごみ箱がないので、食べ終わったらむやみに捨てるほかないのかもしれないということが分かりました。ごみ箱が少なすぎるので道の側にごみが増えていってしまうということが分かった後、私は友達と一緒に市役所に道の両側のごみ箱を増やしてほしいとお願いしました。私は今後人々が環境保護意識を持ち続けさえすれば、洛陽の道がもっときれいになって、洛陽がもっと美しくなるはずだと思っています。
  それから、私はどうしても洛陽の水質汚染問題を言わなければなりません。日本語の授業の時、先生が「日本では、水道水を直接飲むことができますが、中国ではできません。これは中国の水質汚染がひどすぎるからです。」とおっしゃったのを覚えています。この話を聞いた後、私は非常に辛かったです。洛陽の工場は多くて、工場の廃水はすべて近くの川に排出します。私の家の近くの洛河は数年前すでに「死んだ川」になりました。毎回河辺を歩くと、川から漂ってくる死んだ魚のにおいで私は息が苦しくなります。この汚染された川は人間に影響を与えるだけでなく、すべての生命にも影響を与えるはずです。洛陽の道のごみは片付ける方法がありますが、汚染された川は私達はどうすることもできません。
  私は外国の観光客が死んだ魚が浮かんでいる川を見たときの表情を想像する勇気がありません。私が言いたいのは洛陽の市民として、自分の町の環境を守る義務があります。そうしなければ、たとえ多くの名所旧跡を持っていても、汚染された環境の下で非常に見劣りすることになります。
  洛陽のみなさん、私たちの都市の悠久の歴史のため、私たち民族の誇りのため、団結し、環境を改善して、洛陽を更に美しくするために一緒に頑張りましょうと声を大にして呼びかけたいです。

「私の夢」

学校名:ハルピン市朝鮮族第一中学
学年:高2
氏名:李 易蓉

 高校一年中間テストの成績が発表した日でした。晩ご飯を食べて私は宿題をやり始めました。テストが終ったので宿題はあまり多くなかったです。こんどのテストは前よりいい点数を取りました。うれしくてクラス中で一番高い138点の日本語試験を父の前に出しました。すると父は見てうんともすんとも言わないで新聞を読みつづけました。私はがっかりしました。しかし何も言わないで友達の家に遊びに行きました。こんなことは,習かんになったからです。出る時、私は門をつよくしめました。テストのために私は本当に重いプレッシャーを受けました。もっともいい成績を取りたかったからです。私は父が私を微笑む顔をして見ながら「すごい、頑張ってね!」と言ってほしいかったです。でも、私がどんなに一生けんめい努力してもとんなに良い成績を取っても、父はいつもきびしい顔をしていました。そして、何も言わなく、あまりうれしくなさそうでした。その時、私のうれしい心もすぐ冷たくなりました。
  ほんとうにおかしい。私と父は一度も平気に座って相談したことがありません。いつも父はきびしい顔をして私を近づけようとさせません。それで私は父と距離をとるようにしていました。間の交流も母を通して行っていました。小さい時もそうでした。私は女の子で歌を歌ったり、踊りを踊ったりするのが好きでした。母は私に拍手もし、伴奏もし、ある時は一緒に踊ったりしました。しかし、父はまったくちがいました。私のすることに関して全く関心を持たなくきびしい表情だけを浮かべていました。それで、私は小さいときから父と「冷戦」状態と思っていました。
  それについて母はよくこんなことを言っていました。「それでもお父さんは易蓉を愛しているよ。世の中で子を愛さない親はいないよ。なぜなら子は親の宝なので、ただどう表わせばいいのかを知らないだけだよ。易蓉のかわいさと才能といい成績にお父さんはとてもよろこんでいたんだよ。それで、易蓉からまずお父さんと交流してみよう。お父さんはきっとよろこぶはずよ。……」
  「父は本当に私を愛しているのか」、私はいつもこう自分に問いかけていました。もし、それが本当なら私も交流したいです。でも私ははっきりと知っていました。父はだれにも笑わないまるで機械のような人です。かれの「愛の唯一の表達方は「無関心」でした。そんな態度への私の答えもたった一つでした。それは私も父を無視することでした。その結果二人の間の距離はますます遠くなっていきました。だから私は交流計画を取消しました。
  しかし、その日の夜、のどが渇いて起きようとした時、父が私のへやに入ってきました。父は私にふとんをかけ、私の髪の毛をなでてくれました。そしてこう言いました。「易蓉、父としてごめん。……」私はびっくりしました。「この人は本当の父なのが。父はこんなセリフを言うはずがない人じゃないか。しかし、どうして……」
  父は話しつづけました。「父としてごめん、よく関心もしないし、がっかりさせてしまって……。実は易蓉はとても立派だよ。今日も試験をよくみたよ。こんな立派なむすめがいてお父さんはとてもしあわせだ。どうも……」
  この言葉で私は父の声がつよくふるえているのを感じました。私の心もふるえているのもはっきり感じました。目をすこし開けて見ると父が泣いていました。初めて父の涙を見ました。やさしい微笑みも、かがやいている目の前の涙も、そんなやわらかな話し方の父も初めて見ました。かなり長い沈黙のあと、父は私のへやを出ました。その夜を私は涙に暮れました。
  数日後、父の誕生日の時に、私は父にプレゼントをあげました。
  「お父さん、お誕生日おめてとう。これはプレゼントだよ。」お父さんはびっくりしていました。私はゆっくりプレゼントを出すと、父は変な顔で私を見ました。でも、すぐに「お父さんと飲んでみて」と言いました。しばらくして父はおさけをいっぱい飲んで酔いました。私はすこしもじもじして「お父さん、私……私はお父さんを……好……好きです。」と言いました。自分でさえおどろきました。父は突然あたまを上げて私をまじまじと見つめ、またあたまを下げました。その時、体は軽くふるえていました。また先日見たのと同じ涙が目にきらりと光りました。私はそのあと何も言いませんでした。その日は沈黙で終りました。でも私と父の心は普通でいられなくなって、二人で心で笑いました。
  「お父さんは易蓉のようなむすめがいてとてもしあわせだ。どうも。」
  夜、日記を書く時、父のそのことばが何度も思い出しながら、父の涙が心をしげきしました。それで、私は決心しました。かならずよく勉強していい大学校に入ったあと、本当に立派な人になろうと決心しました。情の前で、私も父もまだ完璧ではありません。ただ自分だけの方法で相手を愛し、関係を作るのです。それで、私も自身だけの方法でそんな夢を持つようになりました。父のために。そして愛のために。

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